今回は、雑談1回目として、「やり甲斐」や「時代の変化における仕事と労働」についてお話ししてみようと思います。
★自分が生きている価値とは何か?
多分他人に対しての価値などは存在しないように思える。
しかし、自分自身が人生にどのように価値を感じられるのかは、自分次第で決まるのではないだろうか。
★この話の切掛けは何か?
まず今回は、このような面倒な理屈を語る事になった「切掛け」を話しておこう。
数日前の事だ。
「この仕事にやり甲斐がある?」と同僚に聞かれた。
そして、即答できなかった自分がいた。
もし上役に同じ事を問われた場合なら、体裁の良い答えをしていただろうと思うが、「建て前を除外した場合の本音」を即答できる人はどれ程いるのだろうか?と思ったのだ。
もう一つ即答出来なかった理由に、「この質問自体が間違っているのではないだろうか」と言うことが頭をよぎったからだ。
そもそも仕事の中に「やり甲斐」が潜んでいるものなのか?
「やり甲斐」は、個人の目標や設定した定義により人それぞれ異なるはずだし、自分自身がやり甲斐を見いだせるかどうかという問題であり、仕事の中に「やり甲斐」というものがあるのでは無いと思う。
この些細な同僚の質問が切掛けで、書き始めているのだが、現時点では即答できない自分のままなのだ。つまり答えはないと言うことだ。
書きながら考えをまとめて行こうと思っているので、どのような展開になるかは自分でもわからないし、あくまでも個人的な考えで綴っていくつもりだ。
「やり甲斐」を一言では纏められないので、この機会に物事の考え方を多くの視点から見つめなおさなくては結論を出すことは出来ないと思うので、少し長い話しになるかもしれない。
★この仕事にやり甲斐がある?
★やり甲斐は仕事に付属していない
つまり、仕事の中にやり甲斐があるので無く、自分でどのようなやり甲斐を感じるかという事だろう。
やり甲斐って当たり前に使っているが、実はどういう意味か深く考えてみたことはない。
何か目標を達成させた時に感じる様なものとは違うのだろうか。
・自分の設定により決まるのか?
目標をどこに置くかで達成感は違ってくるのではないだろうか?
低い目標を掲げ、短期間で目標に届くと「達成感」が生まれる。
そして、次の目標も低めに設定するとこの繰り返しでやる気も出てくるし、目標の決め方も次第にわかってくるような気がする。
もしも、高すぎる目標を掲げた場合、なかなかゴールが見えないので途中で断念し結果を出せずに終わる事もあるのではないだろうか。
★ 仕事の目標設定は、高くても低くても問題
だからといって低すぎる目標では、何の努力もしないで終わるという事が起こるかもしれない。
努力をしてからこそ達成感があるのではないだろうか。
もし、達成感のようなものでやり甲斐が感じるのなら、単に目標を置けば良いだけの事なのか?
いや、今回考えているのはそのような事ではなくて、平凡な毎日の繰り返しにマンネリ化していて、達成感どころか「このままでいいのだろうか」と考えてしまう事が多い。
仕事にやり甲斐があるかどうかの前に、人生のやり甲斐?生き甲斐?を感じているかどうかという事が疑問になった。
★やり甲斐は自分自身で見つける。
もし、生活費を稼ぐ目的で働いているのなら、給料をもらった時点で目標は達成しているのでやり甲斐はあるのではないか
しかし、給料日に達成感は味わえない。
であれば、目標達成とやり甲斐は違うものだろう。
・やり甲斐を感じる為の目標設定。
生活費を稼ぐことは前提な事だろう。
社会に出てから一生ボランティアだけでは、食っていけない。
稼がないと、社会のために役立つボランティアでさえする事は出来ないだろう。
では、「おかねを稼ぐ」という事は前提として置いておいて、そのために何をするかと言う事なのか?
それとも、やりたい事を一生懸命続けていればやり甲斐も生まれ、結果として収入を得ることが出来るとでも言うのか。
そもそもやりたい事って何だ?
何がやりたいと思っておとなになったのだ?
★子供の頃の仕事に憧れた仕事。
以前にも書いている事だが、子供の頃の憧れた職業というのは、その年齢で知っている範囲で考えたり答えたりしていたような気がする。
ませている同級生は、具体的に人生設計など語っている人もいたかもしれないが、自分には子供の頃に人生設計を考えるなど神業的な事は出来ない奴だったのだ。
時代も今とは違い、仕事を余裕で選択できる「働きて市場」とでも言うような頃だった。
今では、やりたい事を叶えるなら、自分で起業でもしない事には思った通りの仕事などを見つけるのも大変なのではないか。
・現実とのギャップ
そんな子供の頃でも、一応それなりに「やりたい事」はあったのだと思う。
でも、具体的なことは解るはずもなく漠然と電気関係などと言っていただけのような気がする。
そして、確かに電気関係の勉強をして、電気関係の仕事に就職できた。
しかし、電気関係といってもジャンルが広すぎて就職した会社で???的な感じだったような気がする。
何関係の業種というより、自分が何関係の職種に携われるのかの方が重要ではないか。
まぁ、そんなことも考えることも無く、子供の頃は勉強をしなければいけないから勉強をして、大人になれば働かなくてはいけないから就職した。
ただ、それだけだったかもしれない。
その頃に、もっと具体的に考える事が出来ていたのなら、今は成功者の一人になっていたかもしれないのだ。
しかし、その成功をおさめていないからといって、人生を後悔した事は無い。
そもそも、働く目的と生きていく目的は違うのだから。
リモート時代のビジネス思考術・脳内革命成功の鍵|Hoxmo Style
★人間は生きる為に働くのだ!
誰も生まれる前から、働く目的で自分の意思で誕生した人はいない筈だ。
ましてや社会貢献など生まれる前から解るはずもない。
教育を受けて社会を分かってくるに連れてそのような事は感じてくるのだろう。
生まれたくて生まれた人もいないだろうが、うまれてきた以上は生きていくしか無い。
子供の頃は親が育ててくれたのだから、自分が社会で生きていく知恵は本能としては持ち合わせていない。
眠くなるから寝るように、お腹が空くから物が食べたくなる。
親が与えてくれる餌はいつまでも続くはずがない。
ならば、自分で餌を得なければいけないのだ。
そのために、お金が必用だという事も分かってきて、お金を得るためには働けば良いと考えるようになる。
だから皆、働いているのだろう。
働くために生きているのか、生きるために働いているのか分からないが、それが自然の流れだと感じているから、何の違和感もなく人間は多分、生きるために働いているのだろう。
・今、生きている事。それが目標達成?
だとしたら、今の歳まで生きている事自体が成功した証なのではないだろうか?
普通から貧乏寄りの家庭に生まれ、それなりに育ってきて、それなりに生きている。
別に大金持ちになりたいとも、大豪邸に住みたいとも思ったこともない。
なのに、働き続けていると昇給もしてある程度収入も安定してくる。
すると、それなりの贅沢な生活になり結局お金は残らない。
お金を残して死んでもしょうがないだろうと思い、生きてきている。
宵越しの金は持たないなどという事が、かっこいい事かと勘違いしながら・・・
★仕事と労働
どんな職業に就きたいか、どんな事で社会貢献するか、などという事より、何をすれば稼げるのか?と考えるようになってくる。
そして色んなことを試しては失敗し、試しては少し成功し。
その繰り返しで何とか生き続けている。
世の中に何かを残したとか、世の中のために何か為になる事をしたいとか考えていたら、一生の仕事としてひとつの事に取り組んでいたに違いない。
しかし、自分のために、また、自分の家族のためにと考えると、仕事と言うよりも労働を選んでしまう事になる。
いくら世の中のためになる事でも、自分の家族が餓死したのでは元も子もないだろう。
野望など捨てて、守りに入るのも動物としての本能ではないか。
・野望を追いかけられる状態
もし、野望を持って生き続けられるとしたら、守るものがないという状態なのではないだろうか。
家族がいれば守ろうとする本能が優先してしまう。
悲しいかな、どう考えても自分の家族だけは守りたいと誰もが思うだろう。
もし、家族がいなければ、やりたいようにやって、もし大失敗をしでかして住む所を失っても悔いは残らないような気がする。
その様な環境下ではないから、気がするだけなのだが・・・
色々な仮説を立てて考えても、もし守ら無ければいけないものが無ければ、きっと野望持ち続けているかもしれない。
これは、成功者になるという意味ではなく、やりたい仕事をやっているだろうという事だ。
だからといって、食べて行けているのかどうかは分からないし、住む所すら失っているかもしれない@が、それも好きでやっているのならそれでも良いと思ったのだ。
しかし、現実は守るべきものがある。
だから、労働をしてお金を稼いでいるのだ。
そして、時代はいくつか変わった。
今は、労働しても稼げない世の中になりつつある。
★時代が変わったと思い知らされる
少し私の知人の話をするとしよう。
出世していた知人の話を聞くと、働くところが有るだけ有難いと思えるのだ。
彼は、大企業に就職してから出世して、高給取りになって・・・
高級車を乗り、自分の家を持ち(ローンだそうだが)、子供が出来て贅沢な暮らしを送っていた。
ほんの3年前までは・・・
部下を動かしているだけの高給取りの役職は今や要らないという事なのか、希望退職という体の良いクビを言い渡され、退職金を家のローンに当てたがまだ足りず、仕事を探してもそんな頭の硬い奴など必用としない起業ばかりで、今の時代、部下に指示など出さなくても、何をすればよいかという会社の空気は良く読める人ばかり。
働き口もなく失業保険も切れてしまったという、成功者のようでこれからどうするのかわからない状態や、ほそぼそと経営してきた中小企業の経営者であった知人も、今は会社もなくなりどうしていることやら・・・
そんなことを思えば、なんとか仕事もあり、こうやってブログなど書いてタイピングの練習をしているなどと言い、贅沢な生活を送れているのは奇跡のように感じてくる話ばかりが周りにある。
こうなると、やり甲斐などどうでもよくて、収入を得続けることを優先して考えなければいけないのではないだろうか。
「収入を得続ける」当たり前のようだが、非常に難しい世の中なのだ。
先日まで連載していたブログでも、大げさな危機管理や、万一のことなんてそんなに無いのでは無いかと思われたかもしれないが、大げさではなく、いつ突然に自分に襲いかかるか分からない状態であるという事なのだ。
だから・・・
「何とかせねば」いけないのだ!
いま、食えているうちに・・・
これからも食っていけるように!
まだ動けるうちに・・・
いつ動けなくなるかもわからないから!
今のままではなくて、新しいことを考えないとならない時が来ているのだ。
守るべき家族に守られて、今生きているのだから・・・
感謝!!
人間は、簡単には死なないのだから・・・・
やり甲斐を見いだせる仕事を・・・
いま!
【リモート時代のビジネス思考術・脳内革命の鍵|オズモスタイル】